記者は個人の心情ほ主とする発言には慎重であるべき

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080530-OYT1T00117.htm
==全文引用==
佐世保女児殺害の加害少女、強制的措置を再延長せず

 長崎県佐世保市で2004年6月に起きた小6女児殺害事件で、県佐世保こども・女性・障害者支援センター(旧佐世保児童相談所)は29日、児童自立支援施設「国立きぬ川学院」(栃木県さくら市)に入所している加害少女(15)について「性格や行動に一定の改善が認められる」として、施設内での行動を制限できる強制的措置の再延長許可を長崎家裁佐世保支部に申請しないことを明らかにした。

 4年間に及んだ措置は9月14日で終了する。

 今後は、同施設や別の児童養護施設で処遇を受けるか、児童福祉司の指導を受けて在宅で生活することなどが想定される。

 ◆御手洗さんが会見、複雑な心境吐露◆

 被害女児の父で毎日新聞記者の御手洗恭二さん(49)は29日、佐世保市で記者会見し、「少女は(人生の)やり直しができていて、娘はやり直しができないということを改めて突きつけられた感じだ」と複雑な心境を明かした。

 施設職員らに「更生のためには少女が事件と向き合うことは欠かせない。職員を通して遺族の思いを伝えたい」などと求めてきたが実現していないという。「被害者や遺族とのつながりを切ったまま、加害者を社会に戻すやり方で、本当の更生と言えるのか」と述べて不満を漏らした。
(2008年5月30日01時41分 読売新聞)
==引用了==

確かに加害女児の罪は許されるものではない。
だからといって、殺害された被害女児の責任を今となっては誰も言及しない。
それもまたおかしな事だ。
報道は世論を形作る。
そして、報道を動かすのは人である。
客観をもって常とすべき報道において、片方の立場のみで本質を見極めないことはすなわち悪である。もっとも、人において「客観」とうものは本来想像せず、有るのは主観のみであるということから、報道はある種の主観の集合体になりがちなのは仕方がないことなのかも知れないが、だからといって、もう他方の当事者が主原因をつくったことをすっかり忘れてしまうのもどうかとおもう。

御手洗記者も人の親であり、愛娘を殺害されたは心中の悲しみのすべては私などにはとても察っしきることすらせできない深い傷となっているのであろう。それは当然のことだと思う。
ただ彼は人の親、被害女児の肉親である前にである前に、メディア関係者、それも公正・公平をもって正義とする新聞記者である。
だとするなら、被害女児の行ったいじめの真実を真摯に受け止めて公の場での発言内容を選ぶべきだ。少なくとも、メディアのマイクの前で感情のみでの発言は控えるそういう配慮は必要である。

殺人もその主原因となった「いじめ」も同じくらい許されない。
報道は世論を形作り誘導する。
だからこそ、記者は個人の心情ほ主とする発言には慎重であるべきなのだ。
これは非情な意見かも知れない。
しかし、これは必要なことだ。彼が未だに、そしてこれからも「記者」を名乗るつもりであるならば。