パラドクス

「自由を享受することは不自由の始まりである」


日本国民には基本的人権として日本国憲法に保障されたいくつかの自由があります。
従っていくつかの「有害」を前にして行われる「規制」の前にそれに先んじて立ちふさがる「自由」は不必要ではないのかという質問があったとすればそれは否と言うのが結論だあると考えます。
「それではあなたは"それを有害であるから規制せよ"(もしくは規制に賛成である)という。それならばそのあなたの発言を保証する自由は何処に由来するものであるのか」まずそれを考えていただきたいのです。
「規制」の対象になるような「有害」を産み出す「自由」は不必要であるとするならば、その前提条件には必ず「規制の優先」という意見が述べられることを保障された「言論の自由」、「表現の自由」、「内心の自由」があるからです。これは規制を考える側もされる対象を守る側(もしくは、規制される対象になりうるものを表現する側)双方とも同種の権利に保障されているのであり、もし「自由」がなければ、そんなことすらいえないのです。
もっと端的に言うなら「規制を達成させる自由」を行使する事によって琴が鳴ったその瞬間から、「規制論者」すらも「規制対象になりうる」というパラドクスが発生します。

よく言われるパラドクスに”民主主義が「(独裁者としての)ヒトラー」ないしは「ナチズム独裁政権」を産んだ”というのがあります。アドルフ・ヒトラー率いる「国家社会主義ドイツ労働者党」はまがいなりにもワイマール憲法下の総選挙という民主主義的システムによって選ばれた政権であるからです。それを望んだドイツ国民自身もその恐怖の家中に突き落とされた現実は歴史が物語っています。
その政権に対する肯定、否定は保留するとして、結局のところこの場合もそれと同じで「自由を享受できる立場にあるからこそ不自由を望むことが出来る」ということの具体化であり、これと同列のことが今の日本で執り行われている多くの規制論争に当てはまるということを、大半の規制派の方はもっというと"殆どの日本国民は理解していない"んだと思っています。




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