「行列が出来る店」は本当に「美味い」のか?

さっきの話。
日テレを見ていると「行列が出来る店だからやっぱり美味い」という表現を使っていた。
確かに「長い行列」を作ることが大多数の指示であるならば一つのバロメーターには違いない。
では果たして「味=行列」なのだろうか。

兎角、日本人は何事につけ「行列」が好きな国民性を持つという。
それは旧ソ連邦時代や、崩壊間もない露西亜のような商品不足から来る「死活問題」からではなく、概ね個人の意志による「選択」の問題である。
選択すなわち「期待」であり、極論すると行列の長さは大衆の「期待値」に比例すると考えられる。ラーメン屋の行列しかり、win95や有名タイトルのゲームしかり、MG「Xガンダム」しかりである。コミックマーケットの深夜よりの行列なども即売会という「お祭り」に対する期待からくる行列の代表的例の一つといえるだろう。

でもここで冷静になって考えて貰いたい。
「行列」はあくまで「期待値」である。
そして「期待」とはすなわちその人の持つ「欲望」である。
欲望を満たさんがためにその先の「現象」に期待をかける行為が「行列」であると仮定してみる。つまり、行列の先にの「現象」がその人の期待に対して100%答えられるのならばそれは
「行列=満足を得られるもの」と成りうるのである。
しかし、実際そうでない場合も多い。
先の例を取ると「ラーメン屋の味」である。
「確かにそれなりに美味いけどこれが並んで食べるほどの味なの?」と疑問に感じたなんてことが結構あるのではないだろうか。

これはその人の中での期待値が「極大まで肥大化」してしまったため発生した現象だと考えられる。行列の出来る店だからきっと美味しいであろうという前提条件で出向く場合屡々起こりうる現象だ。すなわち期待のかけすぎである。
では何者が彼に必要以上の期待を与えたのであろう。

答えは「情報」である。
情報が拡散するとき、その段階で少なからず尾ひれが付く。
たとえば最初に「美味しい」と感じた人が次の人に伝える場合、感想の中に「好感」という付加価値が付く。それを信じたひとがまた同じように「好感」を抱いたならばその段階で更に情報は肥大化する。それを繰り返しが行列という具体的な現象として顕れ行列の構成員は肥大化した情報をもって行列に参加することになる。そしてその大多数は行列に「参加したこと」が「味への満足感」だと錯覚して帰って行くために「行列バブル」が崩壊するまでは『ぷよぷよ』のように「幸福の連鎖」が続くことになる。
さて、厄介なのは情報は「捏造」が可能だという点である。
意図的に情報を流して期待値を上げさせて、行列バブルを引き起こさせることが日常的に屡々に執り行われている。個人レベルの捏造であれば問題はない。それをメディアという情報の怪物に載せた場合どうなるのかということである。
得てして大衆は「情報」に飢えている。
情報は氾濫しているではないかといわれるかも知れないが、それは情報が氾濫しているからこそ価値がある情報に飢えているのだ。それを「価値がある情報」に「偽装」してとして流したらどうなるだろう。
情報に幻惑された行列というものも屡々発生する。所謂「広告効果」である。そう言った場合の殆どは「行列」そのものが幻想であり期待値に答えられなのである。
つまり「行列」はあくまで目安であり、それが期待に答えうるものであるかどうかは個々人の主観に委ねられる。
それこそが「行列の本質」であり、むしろ情報を吟味する目を持ち本質を見極めなければずっと彼は瞞され続けることになる。
つまりは行列の出来る店が必ずしも美味いとは限らないと考えた方が良いというのが私なりの結論である。